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 2016年でスパイクを脱いだ400mの日本記録保持者。その生涯ベストレース6選を通して、千葉麻美の競技生活を振り返る(文/寺田辰朗 写真/陸上競技マガジン)

千葉麻美
生涯ベストレース6選

 千葉麻美(東邦銀行)について、印象に残るレースを挙げたらキリがない。そこで、引退後の取材中に千葉が話をしてくれた“ある基準”で、6レースを選んでみた。

①2005/06/05 初めての51秒台(51秒93)
②2005/09/19 2度目の51秒台(51秒80)
③2007/06/10 日本インカレ女子総合優勝
④2007/08/27 世界選手権予選突破(52秒13)
⑤2008/05/03 現日本記録(51秒75)
⑥2010/11/22 アジア大会銀メダル(52秒68)

“ある基準”は後述するが、上記6レースは、取材した側も「なるほど」と納得できる。

 ①は千葉が福島大2年時の日本選手権予選。福島大に入学して間もなくのアジア・ジュニア選手権(2004年/マレーシア)で出た日本記録52秒88を0秒95も更新し、日本人初の快挙を達成した。

 ②は初51秒台から3カ月後のスーパー陸上(現ゴールデングランプリ)。外国勢3選手にくらいつき、3位のベラルーシ選手には約3m差に迫った。日本選手が世界トップレベルの外国選手に迫るシーンは、それまでの女子400mでは見られなかった光景で、新鮮な驚きがあった。

 ③は高校の有力選手が大挙入学する筑波大に2点差で勝った大会。推薦入試枠が少ない地方国立大が総合得点で日本一に輝いたことは衝撃だった。福島大の川本和久監督もトラック優勝は狙っていたが、総合優勝までは考えていなかった。千葉は専門の400mだけでなく200m(当時の学生新)、4×100mR、4×400mRの4種目に優勝し、総合優勝の立役者となった。

400mで日本人初の51秒台に突入した日本選手権時の千葉(大学2年)   

大学4年時には日本インカレ女子総合優勝。最前列中央が川本和久監督、写真に向って監督の左隣りが千葉   

突出した
ロングスプリンター

 千葉は東北・日本両インカレで4年間負けたことがない。また国体では出場したすべての年で入賞し、獲得したポイントは通算で145点になる。大学対校戦のインカレ、都道府県対抗の国体と、身近な大会でもしっかりと結果を残した。

 ④は地元開催だった世界選手権大阪大会。女子400mでは05年ヘルシンキ大会の千葉が日本人初の代表で、大阪大会では世界選手権初の準決勝進出を果たした(準決勝51秒81)。五輪を含めても2人目という快挙だった。

 世界選手権は4回出場し、決勝進出はできなかったものの、15年北京大会では4×400mRの日本新(日本チーム初の3分30秒突破となる3分28秒91)に大きく貢献した。上記6レースに五輪が含まれていないが、08年北京大会に五輪女子400m史上2人目の代表入り。また、同大会では日本の4×400mRを五輪初出場に導いた。
 ⑤は2年半ぶりに更新した日本記録で、現在(2017年6月13日現在)も残る。

 千葉の日本記録更新は以下の4回。 52秒88 2004/06/13 51秒93 2005/06/05(上記①) 51秒80 2005/09/19(上記②) 51秒75 2008/05/03(上記⑤)

 51秒台は06年静岡国際の51秒84、07年大阪世界選手権準決勝の51秒81(上記④)を加えて5回、51秒台と52秒台を合わせた“サブ53”は40回も走っている。
 ちなみに千葉以外の“サブ53”は、日本歴代2位・52秒52の杉浦はる香(浜松市立高・静岡)は1回、歴代3位・52秒85の青山聖佳(大阪成蹊大)は2回、歴代4位・52秒95の柿沼和恵(ミズノ)は1回。千葉の突出ぶりがわかる。
 そして⑥の銀メダルは、1980年代から中国が台頭し始めてメダル獲得ができなくなったアジア大会において、82年以降では最高順位だった。

川本監督が述懐
師弟「一番のレース」

 福島大卒業後も千葉を指導し続けた川本監督は、千葉の「一番のレース」として⑥の広州アジア大会を挙げる。
 社会人1年目の08年に現日本記録で走り、2年目の09年も川本監督が「たまたま日本記録が出なかっただけ」というほど好調だった。
 だが09年12月と、10年3月の練習中に右ヒザの十字靭帯を負傷。そのケガ以降、バウンディングなどのバネを使った練習を積めなくなってしまった。“サブ53”で走ることができなくなり、6月の日本選手権は3位と、決勝を棄権した大学3年時(06年)を除き初めて敗れた。

 52秒台を最低のノルマとして自身に課していた千葉。大学2年時に習得した動きができなくなり、「こんなはずじゃないのに」という思いも募った。夏頃には何度も、“やめたい”と周囲にこぼしていた。
 それが広州入りし、400m予選の2日前に動きが戻った。「ケガをする前と同じ感覚で走ることができ、これなら行ける」と思ってレースに臨んだ。前年のアジア選手権では優勝しているだけに、金メダルを目指した。だが、52秒台(52秒68)で走ることはできたが、惜しくも大魚は逃した。

 千葉の苦しむ様子を見てきた川本監督にとっては、銀メダルでも驚きだった。
「どこにここまでの強さがあったのか。レースから戻ってきた千葉は『先生、金メダルじゃなくてすいません』と言ってくれたのです。これが、日の丸を付けて戦う選手の素晴らしさであり、それができる心の強さを持った選手なんだ、と感じました。この選手に巡り会えて本当に良かった」

 サブトラックに戻ってきた千葉を、川本監督は思い切り抱きしめたという。千葉もそのことをよく覚えていた。
 冒頭で紹介した6レースは、千葉の記憶にある師弟がハグをしたレースである。どれも千葉にとっては宝物といえる走りで、女子ロングスプリントの歴史に残るレースだった。

故障を抱えながらも銀メダルを獲得したアジア大会。師弟ともに、忘れられないレースになった   

千葉麻美
1985年9月25日・福島県生まれ
162cm・50kg/A型

ちば・あさみ◎福島大1年時の04年、400mでアジアジュニア銅メダル、世界ジュニア6位入賞。05年には日本人選手で初めて、世界選手権の女子400mに出場。07年世界選手権では、女子短距離種目で日本人選手初の準決勝進出を果たした。08年には、51秒75の日本記録を樹立。11年の出産を経て、12年に復帰。13年の日本選手権は4位、14年には日本選手権で3位に入り、アジア大会の4×400mRで銀メダルを獲得した。15年はアジア選手権で7位、日本選手権では出産後の最高となる53秒65で5位に入った。ワールドリレーズと世界選手権の4×400mRでは、最年長として後輩たちを牽引。3走を務めた世界選手権で日本記録を更新した。中学時代から福島県で競技を続け、日本の女子ロングスプリントを牽引。2016年10月の日本選手権リレーを最後に現役を引退した。旧姓丹野。